Unhappy Girl

─ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』

 

「夜明けの光が射したらすぐに沐浴へ出かけよう。きっとお前は、もう長くは乙女ではいられないだろうから」。

ホメーロス『オデュッセイア』

 

はしがき

 

 昔ヨーロッパでは、十八世紀中葉まで、(フランスに顕著な実例がいくつもあるように)、意識的な淫蕩さは、喜劇の一場面や、強烈な諷刺文学や、さらには奔放な情緒に駆られた大詩人の空想と矛盾しなかったことは事実だが、一方、現代ではポルノグラフィという言葉は、平凡、商業主義、完全に定型化したある種の語り口などと同義語となったのも事実である。猥褻さは陳腐さと表裏一体で、あらゆる種類の美的な楽しみは、患者にじかに作用するため、伝統的な言葉づかいを必要とする単純な性的刺激に完全にとってかわられるのだ。ポルノグラフィの作者は患者に、探偵小説の──このジャンルでは用心しないと、ほんとうの人殺しは、実は芸術的独創性そのものだということになって、読者に愛想をつかされるおそれがある。(たとえば会話が一行もない探偵小説などが誰が読みたがるだろうか?)──ファンが味わうような、かならず満足させてもらえるという安心感をあたえるためには、万古不易の約束ごとを踏襲しなければならない。だから、ポルノ小説にあっては、筋の運びは月並みな性行為に限定される。文体とか構成とか比喩的表現などが読者の注意を生ぬるい色情からそらすようなことは断じて赦されない。この種の小説は、とっかえひっかえ性的場面が出てくることが肝心なのだ。つなぎの文章は、つじつま合せ、ごく単純な物語に筋道をつけるためのかけ橋、手短な説明と解説といった程度にとどめるべきで、おそらく読者はこの部分をとばし読みするだろうが、こういう部分がちゃんと存在すると知っているから、たぶらかされるような気分にならずに澄むわけだ。(これは子供時代の嘘のないおとぎ話という定石から生まれた心理だ)。さらに、その作品のなかの性的場面は、つぎつぎに新たな変化、新たな組合せ、目先の変ったセックス、関係人物の数の確実な増加(サドの作品では庭師を呼び入れたりしている)などをともなって、しだいに強化線をたどらなければならず、したがって終りの章は、はじめの章に比べて、ずっとみだらがましさが充満していなければならないわけだ。

 

 一九八九年一一月二〇日、国連総会において、「児童の権利に関する条約(Convention on the Rights of the Child)」が採択される。基本的人権が子供にも保障されるべきであると定めたこの条約は、一九二四年の「子供の権利に関するジュネーブ宣言(Declaration of the Rights of the Child)」並びに一九五九年の「子供の権利宣言(Declaration of the Rights of the Child)」を受けて成立し、翌年九月二日発効する(二〇〇五年一月二五日現在、国連非加盟も含め、全世界の国及び地域の中で署名数一四〇・締約数一九二)。前文と本文五四条によって構成され、生存、保護、発達、参加などの包括的権利を子供に保障し、中に、子供の「情報へのアクセス権」(一七条)や子供の「性的搾取からの保護」(三四条)も含まれている。その後、二〇〇〇年五月二五日、国連総会において、「児童の武力紛争への参加に関する児童の権利に関する条約の選択議定書」と並んで、「児童売春、児童買春及び児童ポルノに関する児童の権利に関する条約の選択議定書(Optional Protocol to the Convention on the Rights of the Child on the sale of children, child prostitution and child pornography)」が採択されている。さらに、二〇〇二年五月八日から一〇日まで、子供に関する国連総会特別会期が開催される。一九九〇年に国連本部で開かれた「子供のための世界サミット」以後の子供をめぐる状況の変化を考慮し、エイズなど新しい諸問題を討論している。総会は、全世界二一億人の子供に対して、行動計画を盛りこんだ最終文書「子供にふさわしい世界(A World Fit for Children)」を採択し、そこに乳幼児死亡率の低減、エイズ感染児童の半減、未就学率の半減、戦争や児童ポルノなどからの保護といった各国が二〇一〇年から一五年までにとるべき行動の指針を掲げている。今日、子供問題は、環境問題と同様、世界的により本格的な取り組みが最も急務とされている。

 

 私は教訓的小説などというものは読みもしなければ書きもしないし、ジョン・レイがいくら主張しようと、『ロリータ』は、いかなる教訓もひきずってはいない。私にとって、文学作品は、直截に美的悦楽とでも呼ぶべきものをあたえるかぎりにおいてのみ存在する。その悦楽とは、芸術(つまり好奇心、やさしさ、思いやり、恍惚)が規範となるような精神状態と、何らかのかたちで、どこかで結びついた存在感だ。

(ウラジミール・ナボコフ『「ロリータ」について』)

 

第一部

 

 Satire is a lesson, parody is a game.

(Vladimir Nabokov)

 

 一九九六年七月、スコットランドのロスリン研究所は、史上初めて、クローン技術による羊を誕生させる。その羊は六歳の羊の乳腺細胞を使う方法がとられたため、『九時から五時まで』で知られる巨乳のアメリカのシンガーである「ドリー・パートン(Dolly Parton)」に因んで「ドリー(Dolly)」と命名されている。その見事なツイン・ピークスは彼女の歌声と作詞作曲の能力に匹敵するほど素晴らしい。この迷える子羊に父はいない。母がいるだけである。「九時から五時まで」の研究者が継父を務めている。ドリーは父の存在の決定不能性と母の過剰を表象している。

 

Tumble outta bed

And stumble to the kitchen

Pour myself a cup of ambition

Yawnin', stretchin', try to come to life

Jump in the shower

And the blood starts pumpin'

Out on the streets

The traffic starts jumpin'

With folks like me on the job from 9 to 5

 

Workin' 9 to 5

What a way to make a livin'

Barely gettin' by

It's all takin'

And no givin'

They just use your mind

And they never give you credit

It's enough to drive you

Crazy if you let it

 

9 to 5, for service and devotion

You would think that I

Would deserve a fair promotion

Want to move ahead

But the boss won't seem to let me in

I swear sometimes that man is out to get me

Mmmmm...

 

They let your dream

Just a' watch 'em shatter

You're just a step

On the boss man's a' ladder

But you got dream he'll never take away

 

On the same boat

With a lot of your friends

Waitin' for the day

Your ship'll come in

And the tide's gonna turn

An' it's all gonna roll you away

 

9 to 5, yeah, they got you where they want you

There's a better life

And you think that I would daunt you

It's a rich man's game

No matter what they call it

And you spend your life

Putting money in his wallet

 (Dolly Parton9 To 5 “)

 

 ところが、『ネイチャー』誌一九九九年五月二七日号によれば、ドリーを誕生させたチームはその染色体を詳しく調査すると、テロメアから三歳という年齢をはるかに上回る老化現象を発見している。女性に年齢を尋ねるのはいささか失礼であるが、彼女は年の割りに老けているというわけだ。「テロメア(Telomere)」は動植物など真核生物の染色体の両端にあり、細胞の老化や癌化に重要な関係を持つと考えられている。その構造はテロメアDNAといくつかのタンパク質が結合した複合体であって、染色体の末端を保護し、他の染色体との融合を防ぐ役割を果たしており、特異な繰り返し塩基配列を持っている。細胞が分裂する度にテロメアが短くなり、ある長さに達すると、細胞は分裂ができなくなり、死んでしまう。ゼノンのパラドックスはテロメアには適用されえない。しかし、胚性幹細胞や癌化した細胞には、テロメラーゼという酵素に活性があり、この酵素によって、短縮されたDNAが修復されるため、いくら分裂を繰り返してもテロメアの長さがへることはなく、無限に増殖を続けられる。癌細胞自身は、その意味で、不老不死である。秦の始皇帝はその妙薬を探すために、徐福を日本に派遣する必要などない。ドリーのテロメアは、同年齢の羊と比べて、二割ほど短く、細胞を提供した親の羊よりもさらに短いことが判明する。成体の細胞ではなく、胚と胎児の細胞からそれぞれ作られたクローン羊についても調べてみると、ドリーよりは長かったものの、いわゆる正常なヒツジと比較すると、長くないというデータも得られている。ドリーは取り替え子だったのである。短いテロメアの原因は、ドリーの場合、細胞を提供した親の年齢と研究室で細胞が培養された時間である。急速に細胞分裂を繰り返したため、テロメアが短くなったと推測されている。この研究結果から、成体から作られたクローン生物は、受精した胚から発生した個体に比べて、一般に、老化が早い、また病気にかかりやすいとの懸念が生じている。現在のクローン技術では、残念ながら、始皇帝の願いをかなえることはできない。

 しかも、二〇〇三年二月一四日、ロスリン研究所は、六歳になっていたドリーを安楽死させたと発表している。この年齢は羊の平均寿命の半分である。研究チームを率いるイアン・ウィルムット教授は、肺に進行性の疾患を抱えていたため、安楽死を決断したと説明し、それはクローン技術とは関係なく、「ゆっくり進行する疾患にかかっていた可能性が最も高く、この疾患には効果的な治療法がない。残念なことだが、飼育場で飼っている他の羊もこの疾患にかかっているので、それが一番確実そうな説明だが、はっきりとはわからない」と話している。こうして世界中に衝撃を与えたドリーは、眠りながら、「デザイナー・ベビーはクローン羊の夢を見るか?」という疑問を残して、この世から去っている。

 

Sometimes in my sleep I hold you close against my skin

Wakin’ up I wish that I could sleep and dream again

‘cause only in my dreams can I know how it might have been

But cheaters never win, Their Heartaches never end

But sometimes I get crazy as lovers often do

Trying to please him and wondering if she’s pleasin’ you

Though they have ever right to any part of us they choose

I still live just for you and our secret rendezvous

 

Torn between two lovers on the jukebox

I’m thinkin’ how I could have wrote that song

Wonderin’ if God loves us when we’re cheatin

Oh, but why he lets us feel things if it’s wrong

And I guess I should be gingin’ "Rock of Ages"

"Amazing Grace" and some of those good songs

But my cheatin’ heart will tell on me tomorrow

If you think that God won’t get you, well you’re wrong

 

Thou shalt not commit, it’s written in the ten

The spirit is always willin’ but the flesh is weak again

And you’re as close to heaven as I might ever fly

And angel in disguise

A wrong that feels so right

 

My cheatin’ heart will tell on me tomorrow

If you think that God won’t get you, well you’re wrong

(Dolly PartonGod Won't Get You”)

 

 この「ドリー」という名前は「悲しみ」を意味している。それは、もともと、「悲しみのマリア」、すなわちスペイン語の「マリア・デ・ロス・ドローレス(Maria de los Dolores)」に由来する。ローマ・カトリックはマリア信仰が根強く、信者はマリアを女性に対してだけでなく、男性にも、ライナー・マリア・リルケやジャック・マリー・ラカンのように、使うことが少なくない。中でも、スペインには、ハプスブルク家のスペイン国王カルロス一世が神聖ローマ帝国皇帝カール五世としてローマ・カトリックを擁護したため、熱心なマリア信仰が他の地域以上に残っている。「聖母マリア信仰に関しては、特に、悲しみの側面が強調されることがよくあります。今日でもマリア像の目から涙が出たの『奇跡』がときどき報道されます。マリアの最大の悲しみはイエスの死であり、それはピエタ(Pieta)像に典型的に表されています。マリアの悲しみは、また、人の罪を悲しむ慈母の悲しみであり、マリアが悲しむ姿に罪人たる人々は神にとりなしてくれる彼女の慈愛と救いを感じるのです。十二世紀のヨーロッパの精神的支柱となった聖ベルナルドゥスは、キリストの受難と聖母マリアの悲しみから流れる愛と犠牲の神秘を体現することが聖職者の理想である、と教えています。このような悲しみのマリアのことをスペイン語でマリア・デ・ロス・ドローレス(Maria de los Dolores: 悲しみのマリア)と呼びました。そして、マリアの名の代わりにドローレスが使われるようになったのです」(梅田修『世界人名ものがたり』)

 しかし、イエスにも、ドリーと同様、父が存在しない。確かに、マリアは彼の母であるが、ヨセフは父ではない。と言うのも、マリアが「精霊によって身ごもって」(『マタイによる福音書』一章一八節)いた神の子だからである。

 

 さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭の慣習に従って都に上った。祭の期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気がつかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した

 三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい、お父さんもわたしも心配して捜していたのです」。

 すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

(『ルカによる福音書』二章四一─五二節)

 

 マリアの子イエスは十字架刑に処せられた後、神の子として復活する。「パウロはこの間のイエスの立場を不思議な神話で説き明かす。『かの人は、原罪を持った者たちを贖うために死んだのだ』と。『神は最も愛でるかの人をさえ差し出すまでに人を愛しておられたのだ』と。『そして、贖いが済んだ今、かの人は確かに復活されて永遠の生命を得られたのだ』と。この瞬間、イエスの存在は、絶望の淵から蘇った。漆黒の闇を拭い去った。今や、彼は神性を帯び、名実ともに至高の存在に駆け上った。かくして、イエスの贖いにより、アダムから連綿と続いてきた人の原罪は拭い去られた。その死は乗り越えられることになった。イエスを信じるそのことで、人は永遠の命を共有できる道を得られたのだ」(小滝透『キリスト教』)

 けれども、近代のマリアの悲しみはそれにとどまらない。もはや神も死んだからだ。「月曜日から土曜日まで」の創造主はお呼びでない。その上、現代に突入すると、父なき子は永遠の生命を獲得したのではなく、取り替え子として母よりも早く老化していく。もう母しか残っていない。ウラジミール・ウラジミロヴィチ・ナボコフ(Vladimir Vladimirovich Nabokov)は、『ロリータ(Lolita)(一九五五)において、迷宮を彷徨うような修辞法を用いて、その悲しみを父のいた世界へのノスタルジアとして描いている。

 

 ロリータ、わが生命のともしび、わが肉のほむら。わが罪、わが魂。ロ、リー、タ。舌の先が口蓋を三歩すすんで、三歩目に軽く歯にあたる。ロ。リー。タ。

 朝、ソックスを片方だけはきかけて立つ四フィート十インチの彼女はロだ。スラックスをはくとローラだ。学校ではドリーだ。正式にはドローレスだ。しかし、私の腕に抱かれる彼女は、いつもロリータだ。

(『ロリータ』)

 

 Lolita, light of my life, fire of my loins. My sin, my soul. Lo-lee-ta: the tip of my tongue taking a trip of three steps down the palate to tap, at three, on the teeth.

Lo. Lee. Ta.

 She was Lo, plain Lo, in the morning, standing four feet ten in one sock. She was Lola in slacks. She was Dolly at school. She was Dolores on the dotted line. But in my arms, she was always Lolita.

(“Lolita”)

 

 「これらの呼び方の変化のなかに、この小説の主人公の女性に対する作者の気持ちがよく表れています。Loは小柄で子ども子どもした感じを与えます。Lolaはスラックスをはいたその少女が醸し出す『女性』を感じさせるものがあります。Dolieは生徒が互いを呼ぶような気軽さが表れており、Lolaの愛称Lolitaは愛する女性を感じさせるものがあります」(梅田修『世界人名ものがたり』)。「ロリータ」という名前は愛とエロティシズムを帯びているが、そこにはドリーとは異なる悲しみがある。それはキリスト教をパロディ化しながら、喪失と罪を内包している。

 『ロリータ』は未成年者に対する強姦罪並びに殺人罪で逮捕・起訴されている「ハンバート・ハンバート」という仮名の男による二部構成の獄中記という形式をとっている。彼は、公判が開始される数日前の一九五二年一一月一六日、冠状動脈血栓で獄死している。そのため、この作品は、その死後、彼の弁護士で、回想録の出版を委任されたクラレンス・チョート・クラークから草稿の編集を依頼された哲学博士ジョン・レイ・ジュニアの「はしがき」が添えられている。そこには、主な登場人物のその後が記されている。一九一〇年パリ生まれのハンバートは少年時代にアナベルという同世代の少女が好きになったが、彼女は腸チフスで亡くなってしまう。その後も彼女への想いを断ち切れず、次第に、彼女の面影がある九歳から一四歳くらいまでの少女を「ニンフェット」と呼ぶようになり、それ以外の女性には恋愛感情を抱けなくなる。アメリカに渡り、三七歳のハンバートは執筆活動を始めるため、田舎町で住む場所を探し、未亡人のシャーロット・ヘイズの下宿屋を訪れる。案内されている最中に、ハンバートはシャーロットの娘で、一二歳のドローレス・ヘイズと出会う。彼はまさにニンフそのものであり、大き目のサングラス姿の彼女に一目で魅了され、その家に下宿することを決める。ハンバートはドローレスを密かに「ロリータ」と呼び、その姿を眺めたり、接触したりすることで倒錯的な快楽に浸り、それを日記に記していく。シャーロットはハンバートに魅かれ、彼にプロポーズをする。彼はロリータと離れたくないために、母親と結婚する。しかし、二ヶ月もしないうちに、シャーロットはハンバートの日記を偶然読み、彼の本心を知った彼女は罵り、逆上して家を出たが、交通事故で死んでしまう。その後、ハンバートは、行き場のないロリータを自動車に乗せ、全米中を旅行に出かけ、旅行中、二人は性的関係を持つようになる。ところが、周囲の目を気にしなければならないし、言い寄ってくる男たちを警戒しなくてはならず、ハンバートは男たちに色目を使うロリータの心をつなぎとめるために、ねだられるままに、プレゼントを頻繁に与える。女子高に入学するものの、一年で退学し、気ままな性格は改まらない。出発から二年後、病気になったロリータを通りすがりの病院に入院させると、叔父と名乗る男にロリータは連れ出されてしまう。必死になって捜したハンバートだが消息をつかむことはできない。言うまでもなく、ラビの間にいたわけでもない。数年後、彼に彼女から、「パパ。」で始まる手紙が届く。もうすぐ子供が生まれるにもかかわらず、金がなくて困っているという旨が記されている。ハンバートはニューヨーク市から八〇〇マイルほどの小工業都市に住むリチャード・F・シラーの家にいるドリーを訪れ、また一緒に暮らそうと言うが、断られる。実は、彼女は誘拐されたのではなく、そのころ好きになった劇作家のクレア・キルティと共に、ハンバートから逃げたのだけれども、結局、キルティに棄てられ、一年前にディックと結婚したと告げる。彼女にシャーロットの遺産を含めた全財産を渡した後、真相を知ったハンバートはキルティを捜し出して、射殺し、一九五二年九月、逮捕される。

 この小説はスタンリー・キューブリック監督とエイドリアン・ライン監督によって映画化されている。前者は一九六二年に公開され、ハンバートをジェームズ・メイソン、ロリータをスー・リオン、彼女の母をシェリー・ウィンタース、クレア・キルティをピーター・セラーズがそれぞれ演じている。また、後者は一九九七年に製作されている。キャスティングは中年のフランス文学者にジェレミー・アイアンズ、ドローレス・ヘイズにドミニク・スウェイン、シャーロット・ヘイズにメラニー・グリフィス、劇作家にフランク・ランジェラである。

 

 ローは、あきれたことに早くも一歳のころから維持が悪くて、寝台から、たえず玩具をほうり出しては、母親に拾わせるという小悪党振りを発揮したということだ。そして、十二歳のいまは、手におえない悪たれ娘になってしまった。ローにとって人生最大の望みは、せいぜい気どってはねまわるバトン・ガールか、ジャズ・ダンサーになることだという。学校の成績は、からっきしだめだが、それでもピスキーにいたころより、いまの学校へ移ってからのほうが落ちついたようだ、と母親は言った。

(『ロリータ』)

 

 いずれの映画でも、ロリータのキャスティングは適格ではないと言わねばなるまい。彼女はアリスではなく、ティンカー・ベルだからだ。ハンバートはニンフェットをイヴではなく、リリスに譬えている。イヴは蛇にそそのかされて知恵の実を食べ、アダムにもそれを勧める罪を犯している。イヴは、なるほど、誘惑者であるが、彼女はセム系一神教において正統的な地位を占めている。他方、「リリス(Lilith; Lilit)」は、中世のユダヤ伝説において、イヴ創造以前のアダムの第一の妻であるだけでなく、夜に子供を脅かす魔女でもあり、正典から消された存在である。ラビは、シュメール=バビロニアの女神ベリティリあるいはベリリをユダヤの神話に吸収しようとしていたが、それがリリス伝説の発端である。アダムは獣姦に飽きて、リリスと結婚したが、彼女は正上位しか知らないアダムの粗雑な性行為を冷笑し、アダムを罵り、去ってしまう。「あんた、下手ね」というわけだ。神は、天使たちを派遣して、リリスを連れ戻そうとしたけれども、彼女は彼らを嘲り、主の命令を無視して、悪魔と性交し、毎日一〇〇人の子供を産み続ける有様である。そこで、主は、リリスに代わって、彼女よりも従順なイヴを創造し、アダムの正統的な妻にしている。ロリータはこうした性悪で奔放なリリスであって、妖精と呼べても、聖母や天使の如き存在ではない。ロリータは、写真家で映画監督でもあるデヴィッド・ハミルトンが『ジ・エイジ・オブ・イノセンス(The Age of Innocence)(一九九五)で撮る「ガール・チャイルド(Girl Child)」であろう。彼女たちは薄い胸、痩身、神経質で、清潔感に少々乏しいという特徴がある。天真爛漫、快活、爽やかな笑顔ではない。生意気で、気難しく、つまらなそうに、暗い表情を妖精はする。いたずらをするときだけ笑顔を見せる。

 

Unhappy girl,

Left all alone

Playing solitaire

Playing warden to your soul

You are locked in a prison

Of your own devise.

 

And you can’t believe

What it does to me,

To see you

Crying.

 

Unhappy girl,

Tear your web away

Saw thru all your bars

Melt your cell today

You are caught in a prison

Of your own devise.

 

Unhappy girl,

Fly fast away

Don’t miss your chance

To swim in mystery

You are dying in a prison

Of your own devise.

(The Doors “Unhappy Girl”)

 

 「ロリータ」は、歴史上、文学が生み出した言葉としては最も有名なものの一つであることは間違いない。文学作品から生まれた言葉が世界的に日常会話で使われるようになるケースは必ずしも多くない。最近では、ウィリアム・ギブソンが『ニューロマンサー(Neuromancer)(一九八四)の中で用いた「サイバー・スペース(Cyber Space)」や「アクセス(Access)」などがあげられるが、「ロリータ」も、破廉恥な表情を浮かべるか、いささか顔をしかめながら、人々の口に上っているそういった類の言葉である。「ロリータ・コンプレックス」という概念は、この小説に由来するものの、ラッセル・トレイナーの『ロリータ・コンプレックス(The Lolita Complex: A Clinical Analysis.)』(一九六九)によって知られるようになっている。これは、ティーン・エージャーなど恋愛するにしては若すぎる少女を対象にする点で、小児性愛や幼児性愛には「ペドフィリア(Pedophilia)」と区別されなければならない。「かわいい子なら誰でもよかった」などとかの偽装結婚した男は言わない。何しろ、好みがうるさいからだ。ただし、両者とも、さまざまな説があるけれども、強すぎる母の抑圧による精神の未発達や幼少時代への回帰願望からその人物の精神年齢と同じくらいの少女に魅かれると考える人もいる。

 

 ここで私は、つぎのような考えを披露したいと思う。それは、少女は九歳から十四歳までのあいだに、自分より何倍も年上のある種の魅せられた旅人に対して、人間らしからぬ、ニンフのような(つまり悪魔的な)本性をあらわすことがあるという考えだ。この選ばれたものたちを「ニンフェット」と呼ぶことにしよう。

 お気づきだろうが、私は時間を示す言葉を空間を示す言葉の代りに用いているのだ。じつのところ、私はみなさんに「九歳」と「十四歳」を、私のいうニンフェットたちの出没する霧のかかった広大に囲まれた鏡のようなめらかな渚とバラ色の岩からなる魔法の島の境界線と見なしていただきたいのだ。しかしこの年齢制限内の少女はすべてニンフェットなのだろうか?むろん、そうではない。もしそうなら、その内情を熟知するわれら孤独な航海者たち、われら悪魔に魅いられたものたちは、とうに気が狂っているだろう。美貌などというものは全然その基準にはならないし、下品というか、すくなくとも一定の社会でそう呼ばれるものも、必ずしもニンフェットの神秘的な特性を傷つけるものではない。この世ならぬ優美さや、とらえどころなく不実で、心を千々に乱れさせる陰険な魅力といった特性こそ、ニンフェットと同年代の少女たちとを──ロリータが同類たちと戯れる恍惚の時間のなかのあの無形の島よりも、現象的時間内の空間的世界のほうに属する少女たちとを区別する相違点なのだ。同じこの年齢制限内において、一時的に不器量だったり、大いに器量よしだったり、「かわい」勝ったり、さらには「愛くるしい」ほどだったり、「魅力的」だったりするような、ぽっちゃりとして、また体の腺の整わない、冷たい肌の、ありふれた、いかにも人間くさい少女たちとくらべると、本物のニンフェットの数は、はるかにすくない。もっとも、健康な胃袋をもち、髪をおさげにした、ありふれた少女たちも、成人してすばらしい美人にならないともかぎらないが、(黒靴下と白い帽子の、みっともない太っちょが、目のさめるような銀幕の大スターに変身する例もあることだから)、普通の男が女学生かガール・スカウトの一団の写真を見せられ、もっともきれいな娘を選べといわれたら、彼は、かならずしもそのなかからニンフェットを選びはしないだろう。健全な子供たちのなかに、それと知られず、自分でもその魅力に気づかずにまぎれこんだ命取りの小悪魔、言いあらわしようのない徴候──かすかに猫を思わせる頬骨の輪郭、うぶ毛のはえた四肢のたおやかさ、絶望と羞恥とが感傷の涙のためにこれ以上並べたてることのできないその他もろもろの徴候──によって、即座に見分けるためには、芸術家で、狂人で、無限の憂愁にとりつかれ、下腹部に熱い毒薬が煮えたぎり、鋭敏な背骨に激しい官能の炎が燃えさかるような人間でなければならないのだ。

 しかも、この問題では時間の観念が非常に魔力的な役割を果たし、男がニンフェットの呪縛を受けるには、少女と男のあいだに、数年、私に言わせれば最低十年、一般的には三十年から四十年の年齢のひらきが必要で、少数だが九十年もちがう例が知られているが、これとて、べつに驚くにあたらない。これは焦点の調節の問題であり、内面の目がおののきつつ越えるべき距離の問題であり、心が倒錯した歓喜にあえぎながら感じとるある対照の問題なのだ。私もアナベルも共に子供だったころ、彼女は私にとってニンフェットではなかった。私は彼女と同等で、私自身、同じあのの魅惑の島で小さなパーンになることができた。しかし、あれから二十九年の歳月が流れて一九五二年九月となったいま、私は、私の生涯で最初の宿命的な小妖精を彼女のなかにまざまざと見る思いがする。私たちは、おとなの一生をもしばしば破滅におとしいれるほどの烈しさをもった早熟な愛に駆られて愛し合った。強い少年だった私は生き残った。だが、毒は傷のなかに残り、傷口はいつまでも癒えることがないまま、やがて気がついてみると私は、二十五歳の男が十六歳の娘に求愛することは許されても、十二歳の少女にそうすることは許されない文明社会のなかでおとなになっていた。

 

 極めて厳密な定義・分類に適うニンフェットを見出すには「芸術家」の能力が必要だとハンバートは指摘している。なるほど、幼女や少女に関心を寄せる芸術家は、ルイス・キャロルやエドガー・アラン・ポー、チャールズ・チャップリン、パブロ・ピカソ、ジェリー・リー・ルイス、ロマン・ポランスキー、ウディ・アレン、ピート・タウンゼント、有島武郎、竹久夢二、藤子・F・不二雄など決して少なくない。また、リュック・ベッソン監督・製作の作品には、スティングの『シェイプ・オブ・マイ・ハート』が印象的な代表作『レオン』を含めて、生意気な少女と冷徹な中年男が中心的人物として見られる。

 

He deals the cards as a meditation

And those he plays never suspect

He doesn't play for the money he wins

He doesn't play for respect

 

He deals the cards to find the answer

The sacred geometry of chance

The hidden law of a probable outcome

The numbers lead a dance

 

I know that the spades are swords of a soldier

I know that the clubs are weapons of war

I know that diamonds mean money for this art

But that's not the shape of my heart

 

He may play the jack of diamonds

He may lay the queen of spades

He may conceal a king in his hand

While the memory of it fades

 

I know that the spades are swords of a soldier

I know that the clubs are weapons of war

I know that diamonds mean money for this art

But that's not the shape of my heart

 

And if I told you that I loved you

You'd maybe think there's something wrong

I'm not a man of too many faces

The mask I wear is one

 

Those who speak know nothing

And find out to their cost

Like those who curse their luck in too many places

And those who fear are lost

 

I know that the spades are swords of a soldier

I know that the clubs are weapons of war

I know that diamonds mean money for this art

But that's not the shape of my heart

(Sting “Shape Of My Heart”)

 

 ニンフェットは自分自身によってのみそれとして規定されはしない。見る眼のある年配の男性との関係に通じて、初めて、認められる。青二才なんぞにニンフェットがわかるかというわけだ。これはソクラテスの産婆術のパロディであろう。

 

 さて、いろいろの美しさを順序をおって正しく観ながら恋慕の道をここまで教え導かれてきた者は、いまやその究極目標に向かって進んでゆくとき、突如として、本性驚嘆すべき、ある美を観取ずるにいたるでありましょう。これこそ、まさしく、ソクラテスよ、これまでの全精進努力の目的となっていた当のものなのです。

 それはまず永遠に存在するものであり、生成消滅も増大減少もしないものである。つぎに、ある面では美しく別の面では醜いというものでもなければ、ある時には美しく別の時には醜いとか、ある関係では美しく他の関係では醜いとか、さらには、ある人びとにとっては美しく他の人々には醜いというように、あるところでは美しく他のところでは醜いといったようなものでもないのです。

 それにまた、その美は、くだんの者には、ある顔とか、ある手とか、その他、肉体に属するいかなる部分としてもあらわれることなく、ある特定の言論知識としてあらわれることもないでしょう。あるいは、どこか、ある別のもの、たとえば動物とか、大地とか、天空とか、その他、何ものかのなかにあるものとしてあらわれることもないでしょう。むしろ、それ自身が、それ自身だけで、独自に、唯一の形相をもつものとして、永遠にあるものなのです。それに反して、それ以外の美しいものは、すべて、つぎのような仕方でかの美を分かちもつと言えましょう。つまり、これらもろもろの、それ以外の美しいものは生成消滅していても、かの美のほうは、なんら増大減少せず、いかなる影響もこうむらない仕方です。

 したがって、ある者が、正しい少年愛のおかげで、この地上のもろもろの美しいものから上昇していって、かの美を観はじめるときは、その者は、およそ究極なものに達したと申せましょう。なぜって、これこそが、自分の力ですすむにしろ、他人に導かれるにしろ、恋の道の正しいすすみ方なのですから。つまり、地上のもろもろの美しいものを出発点として、つねにかの美を目標としつつ、上昇してゆくからですが、その場合、階段を登るように、一つの美しい肉体から二つの美しい肉体へ、二つの美しい肉体からすべての美しい肉体へ、そして、美しい肉体から数々の美しい人間の営みへ、人間の営みからもろもろの美しい学問へ、もろもろの学問からあの美そのものを対象とする学問へと行きつくわけです。つまりは、ここにおいて、美であるものそのものを知るにいたるためです。

(プラトン『饗宴』)

 

 この「恋慕」は同性愛であり、ソクラテスはそれを年長者と年少者という段階的な関係に置き、対等な関係として捉えない。「恋の道の正しいすすみ方」は、肉体的愛から精神的愛へ、さらには、美のイデアの感受へと「究極的」に至らなければならない。エロースは無知と知の中間者、美と醜の中間者、不死と死の中間者であり、中間者である以上、真理や美、不死、すなわちイデアを求める。

 ロリータへの愛はこうしたプラトニズムのパロディである以上、異性愛でなければならない。ハンバートが愛するのは目の前にいる少女ではないが、抽象的なニンフェットのイデアでもない。幸薄く夭逝したアナベルのイメージを喚起させる少女に魅かれる。けれども、身長四フィート一〇インチ(約一四七センチメートル)で、蜂蜜色のかぼそい肩、絹のようにしなやかな背中、栗色の髪の少女はアナベルではない。このロリータはハンバートの作りあげたイメージから見られた少女である。

 ハンバートはロリータがその「死んだ花嫁」とはまったく別の存在であることに気がつかなかったことを後悔する。

 

 私は、ロリータが無邪気なアナベルとはまったく異質の存在であることがすでに明らかになっていることを、それからまた、私が秘密の快楽の対象として選んだはかない少女のすべての毛穴からしみ出すニンフの毒気が、秘密を不可能にし、その快楽を致命的なものにするだろうことを、当然理解しなければならなかったのだ。期待した歓喜から、苦痛と恐怖以外の何ものも生まれないだろうことを、(ロリータのなかにひそむあるものによって──彼女の背後にかくされた純粋に子供のロリータ、もしくは凶暴な天使によって私に送られた合図から)、当然察知しなければならなかったのだ。

 

 ハンバートは、ソクラテスの如く、ダイモンの声を聞いてはいない。ソクラテスには、プラトンの『ソクラテスの弁明』によれば、「何か神からの知らせとか、ダイモンからの合図といったようなもの」がよく起こる。その合図は、「子供の時からのもので、一種の声となって現れ、それが現れる時は、いつも、何かをしようとするのをさし止め、何かをなせとすすめることは決してない」。ダイモンの声はつねに禁止の形をとり、積極的に勧めることはなく、ダイモンの沈黙がそれを意味する。ダイモンとの結びつきは、古代ギリシアのポリスの制度的宗教生活においては、公的な許可を必要とし、ダイモンと私的に結びつくことは異常である。偉大な哲学者は、若者をかどわかした理由で、死刑に処せられている。他方、ハンバートは、ダイモンに尋ねることなく、アナベルの原型を完全に凌駕しているとロリータへの愛を積極的に勧める。イデアを超えた存在を感動的なまでに確認したと信じたからである。

 ロリータは、そのため、古代ギリシア的な意味における「美」を具現化してはならない。調和がとれていない不安定な状態こそ望ましい。「思春期の肉体的変化の過程のなかで、最初にあらわれるのは胸部発達だ(十年七ヵ月)。成熟の第二の有力な徴候は、色素をおびた恥毛が発生することだ(十一年二ヵ月)。ここで私の心の小さな壺は壮年のおはじきであふれるようになる」とハンバートは二次性徴に執着心を見せている。先に引用したロリータの年齢的条件は、アナベルがそうだったかはともかく、通常、女子では八歳から一二歳頃に起こる二次性徴期に相当する。男子は女子よりも二年ほど遅く始まり、作品からは、彼がそれを迎えていたかどうかははっきりしない。この時期には、視床下部の命令で脳下垂体からゴナドトロピンと成長ホルモンが分泌され、二次性徴が現われる。一次性徴と二次性徴の両方によって、生殖能力ができ、性的な興味が増していく。副腎アンドロゲンやエストロゲン、プロゲステロン、成長ホルモンなどのホルモンにより、さらに、身体的変化がもたらされる。女子は胸が膨らみ、陰毛が生え、体が丸みを帯びてくると、初潮が始まる。ただ、月経と排卵が定期的に見られるようになるには一、二年かかる。この極めてバランスが悪い状態こそロリータの美を可能にする。

 

 原因と結果が交錯するこの錬鉄のような世界において、私が彼女たちから盗んだあの秘密のときめきが彼女たちの将来に影響を及ぼさないなどということが、あり得るだろうか?

(『ロリータ』)

 

 ハンバートはこのようなロリータを「ニンフェット(Nymphet)」、小妖精と呼ぶ。それはホメーロスの『イーリアス』に登場する英雄の多くが恋人にしている「ニンフ(Nymph)」に由来する。この単語には古典ギリシア語で「花嫁」や「新妻」という意味がある。なお、当時のギリシア語はf音を持っていないので、「ニンプ」がより正確である。天使は人間を神の国へ導くが、妖精は妖精の国へと人間を誘い出す。子供は天使と譬えられることがあるけれども、妖精は、その点で、堕天使であろう。神の使者である天使はいささかふくよかで、健康的であるのに対し、妖精は病的で、気紛れだ。天使が一神教的・神話的であるとすれば、妖精は多神教的・民話的である。この誘惑者は世界各地の民俗文学に広く見られる超自然的存在あるいは精霊であり、多くは人間の姿をしており、「妖精の国」と呼ばれる架空の国に住み、魔法を使って人間に悪ふざけをする。妖精たちは妖精の国だけで生活しているわけではない。丘や樹木、小川といった自然の至るところにいると考えられ、妖精がダンスをした跡という「妖精の輪」を始め、「妖精の食卓」並びに「妖精の馬」などがある。サンスクリットの詩に見られる歌と踊りを得意とする魔物のガンダルバや古代エジプトで出産の場に現われて子供の未来を予言する女神ハトホルも妖精として語り継がれている。アラブにも、ジンなど妖精や精霊が民衆の文学には欠かせないし、オセアニアやアフリカ、アジアの諸民族及びネイティヴ・アメリカンにはそういった存在に関する豊かな伝統がある。西洋文学の歴史では、古典ギリシアにおいて、『イーリアス』のニンフだけでなく、『オデュッセイア』にも、妖精の一種であるセイレンが登場している。ルネサンス期以降になると、ウィリアム・シェークスピアの『夏の夜の夢』や『ロミオとジュリエット』、E・スペンサーの『神仙女王』、ジョン・ミルトンの『快活の人』と『コーマス』、『マザーグース』としても知られるシャルル・ペローの『ガチョウおばさんの物語』、ドイツ・ロマン派の諸作品など数多くの文学作品に妖精は描かれている。また、スコットランドの詩人兼民俗学者のアンドリュー・ラングの『青の童話集』や『赤の童話集』、アイルランドでは、トマス・クローカーの『南アイルランドの妖精伝説』やWB・イェーツの『アイルランドの妖精譚』が代表的な近代妖精物語としてあげられよう。クローカーは妖精について「背丈は数インチ、体は空気のように軽く透明に近い、たとえ露のしずくの上でダンスしても、しずくがこわれないほど華奢にできている」と描写している。さらに、一九〇一年生まれのエルシー・ライトと従妹で六歳年下のフランシス・グリフィスは、一九一七年、父アーサー・ライトのカメラで妖精の写真を撮影する。父は二人のいたずらととりあわなかったが、これを母ポーリー・ライトが妖精を研究していたエドワード・ガードナーに送ったことから話が大きくなってしまう。コティングリーの妖精写真として流通し始め、それを見たアーサー・コナン・ドイル卿は一九二二年に『妖精の出現』を発表している。多くの人々は、正直、偉大な作家が妖精のような二人の少女にかつがれているのだと気の毒がっている。一九八三年、エルシーがあれはトリック写真だったと認めたものの、世間にとって、写真が真実かどうかは問題ではない。この騒動に関してジョー・クーパーが『コティングリー妖精事件』を著わし、それは、一九九七年、チャールズ・スターリック監督によって『フェアリーテイル』として映画化されている。この写真がその映画にかかわったメル・ギブソンがオークションを通じて購入しようとすると、妖精をイギリスの国民精神の一つと考える人たちによって、「イギリス国外に写真を出すな!妖精を守れ!」と抗議運動が起き、現在、ブラッドフォードの国立写真博物館に保存されている。一般に妖精は、人間に恩恵をもたらすが、敏感で気分屋なため、いたずらをする。けれども、人間は、彼らを怒らせないように、丁重に扱わなければならない。しかも、アイルランドやスコットランドの民話では、悪い妖精は子供に魔法をかけたり、赤ん坊を誘拐し、代わりに「取り替え子(Changelings)」と呼ばれる醜い赤ん坊を置いていったり、家畜の突然死を引き起こしたりする。

 

Uh! Uha! Gedu!

 

I live uptown

I live downtown

I live all around

 

I had money, and I had none

I had money, and I had none

But I never been so broke

That I couldn't leave town

 

I'm a Changeling

See me change

I'm a Changelin'

See me change

 

I'm the air you breath

Food you eat

Friends your greet

In the sullen street, wow

 

See me change

See me change, you

 

Ew ma! Uh, ah!

 

You gotta see me change

See me change

Yeah, I'm leavin' town

On a midnight train

Gotta see me change

Change, change, change

Change, change, change

Change, change, change

Change, change, change

Woa, change, change, change

(The Doors “The Changeling”)

 

第二部

 妖精への愛はエロースでも、アガペーでもない。『ロリータ』はそうした妖精の登場する現代のメルヘンである。主人公の「ハンバート(Humbert)」はゲルマン的な語源を持ち、英語もしくはフランス語、ドイツ語の名前である。「戦士」の「ハン(hum)」と「有名」の「バート(beraht)」という二つの要素によって構成され、「高名なる戦士」を意味する。ウンベルト・エーコのUmbertoもそのイタリア語系である。ルイないしルイス、ルードヴィヒにも同じ意味がある。高名なる戦士は、その内面はまったく不適切であるとしても、メルヘンの登場人物にはうってつけである。

 かの挑戦的な作家は妖精のように各地を訪れているが、ドイツ語圏にも縁が深い。二三年から三七年までベルリンに住み、「ウラジミール・シーリン」のペンネームでロシア移民の新聞に寄稿している。世界各地に民衆の間で口承されてきたおとぎ話があるけれども、ドイツでは、ドイツ・ロマン派がメルヘンを積極的に参照し、文学の中心的地位にまで高めている。そういったドイツ的伝統は二〇世紀最大のメルヘン作家であるフランツ・カフカを生み出している。「メルヘン(Märchen)」は、中世ドイツ語で「知らせ」を意味する「メーレ(Maere)」に「小さい」を示す接尾辞「ヘン(chen)」がくっついて構成されており、民衆の間で口伝えされる「小さな物語」を指す。他地域のファンタジー同様、時や場所のはっきりしない舞台背景、しばしば超自然的な力を持つ人物や動植物、摩訶不思議で幻想的な筋などを特徴とする。民話は、神話に比べると、ポピュラーであり、後者が正典だとすると、前者は異典あるいは儀典である。一八世紀後半、シュトルム・ウント・ドラングの時代、ヨハン・ゴットフリート・フォン・ヘルダーが民衆の素朴な言語を「国民精神」の表われとして重視する。その後、民謡やメルヘンの収集や学問的研究が進み、一九世紀初めには、ヤコブとヴィルヘルムのグリム兄弟が『子供と家庭のためのメルヘン集』全二巻(一八一二、一五)を完成させている。それと並行して、ヘルダーの強い影響を受けたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテがメルヘンの形式を用いて『ファウスト』を創作している。こうしたメルヘンは伝統的な民衆のメルヘン、すなわち「フォルクスメルヘン(Volksmärchen)」と区別して芸術のメルヘン、すなわち「クンストメルヘン(Kunstmärchen)」と呼ばれる。クンストメルヘンは、一八世紀末から一九世紀前半にかけてのロマン主義時代に最も盛んに創作されている。神の死に基づく産業資本主義=国民国家体制の到来に伴い、ロマン主義者はアイロニーによって外界に対する自意識の優位を確保しようとする。しかし、こうしたアイロニーも神の死によって可能になっている。ヘルダーは、ゲーテと共同で、『ドイツ的気質と芸術』(一七七三)を公表し、民衆文学とホメーロスの精神を称揚しているが、こうしたコンビネーションはジョン・ミルトンが生きた時代にはありえない。聖書を頂点としてヒエラルキーが解体したために、メルヘンはその意義を公に認められる。近代小説は近代国家の形成とパラレルであるが、近代のメルヘンはその小説に対するアイロニーとして機能している。小説の読者が「国民」だとすると、メルヘンは、しばしば、近代によって生まれた「子供」、すなわち「小国民」向けとして扱われる。ロマン主義の詩人や作家たちにとって、民衆のメルヘンは現実を超える作品を表現する大きな霊感の源であり、『青い花』(一八〇二)でメルヘンの手法を用いたノヴァーリスに至っては、メルヘンを「あらゆるポエジーの規範」と言っている。他には、『長靴をはいた牡猫』などが収録されている『民話集』(一七九三)や『金髪のエックベルト』(一七九七)を著したルードヴィヒ・ティーク、ドイツ民謡を収集・改作した『少年の魔法の角笛』全三巻(一八〇六─〇八)で知られるクレメンス・マリア・ブレンターノがおり、ETA・ホフマンも『金の壺』(一八一四)といったメルヘン的な作品を多く残し、フーゴー・フォン・ホフマンスタールは、『千夜一夜物語』ばりに、『六七二夜のメルヘン』(一八九五)のような不思議な作品を書いている。

 

 それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのように、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、それだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないこと自体が救いであります。

 私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる──私はそうも思います。

 アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……

 だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に成育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。

(坂口安吾『文学のふるさと』)

 

 今日のメルヘンはもはや国民精神を具現していない。むしろ、「救いがないこと自体が救い」であるような「文学のふるさと」である。伝統的にメルヘンには富の源泉が示される。食用の植物や動物、子供は豊潤さの象徴であり、それは再生の可能性である。しかし、神が死んだ近代は豊潤さをもたらすメルヘンの時代ではない。「お姫様は王子様と幸せに暮らしました」と言われても、「おいおい、幸せって何だい?玉の輿のことか?ずいぶんうまい話じゃないか!結局、冷たい上辺だけの家庭で、娘はマリファナを吸って、エクスタシーのパーティーに参加した挙げ句、家に寄りつかなくなってるんじゃないか?」とブーイングにさらされてしまう。ジョン・ラスキンの『黄金の河の王様』(一八四一)はそうした時代のメルヘンの注釈書としてふさわしい。妖精の登場してくるメルヘンや伝説、童話、民話は広義のロマンスに属する。ロマンスは、近代小説が近代、すなわち父が死に子の時代の文学ジャンルだとすると、封建制、すなわち父が生きている時代のジャンルである。妖精のメルヘンは、中でも、センチメンタルである場合が多い。民話は本来的な意味の神話から離れており、魔法や霊的力、人間と会話する有機物・無機物、妖怪、怪物が登場しても蓋然性の法則は破られない。メルヘンでは古風な、もしくは通俗的形式が重要であり、象徴は決して新奇なものであってはならず、陳腐なまでに古臭くなくてはならない。メルヘンの道徳論は諷刺であり、ユートピアである。ただ、メルヘンが現代社会に近づけば近づくほど、アンチユートピアの傾向が強まる。近代小説が抑圧したジャンル、すなわちエスニックを復活させた現代小説はメルヘンの地位も向上させる。ファンタジーは現代小説に欠かせない要素である。とは言うものの、今ではメルヘンの主要な媒体は文学ではない。「舞踏への勧誘(Aufforderung zum Tanz)」(カール・マリア・フォン・ヴェーバー)、すなわち音楽と舞踏が背景として表われ、映画やアニメーションはメルヘンにとって格好のメディアである。その逆として視覚性が強調されれば、絵画やマンガにメルヘンが出現する。

 『ロリータ』もアンチユートピアに含めることができるだろう。ハンバートは、アリアドネの犠牲によって、解放されることがなく、決して大団円を迎えない。「すべてをパロディぎりぎりのところでとどめておくと、かならず底知れぬ真剣さがたちあらわれる」(ナボコフ)。妖精は、概して、メルヘンの世界の上位にいるが、『ロリータ』でも、少女の下に大人の男がいる。ハンバートの母やシャーロットといった大人の女はこの世界から出ていく。日常性の転倒を秘めているとしても、ナボコフはそこに非日常や祝祭を導入しない。確かに、『ロリータ』は物語が「はしがき」に向けて回帰していく円環構造を持っており、その意味で、ノースロップ・フライが『批評の解剖』で定義する「ロマンス」である。このジャンルでは、作者の願望を投影させるため、それにとって必然的ではないものは排除される。ところが、ナボコフは、むしろ、比喩を含めた多くの技巧を使い、情報量を増やし、ロマンスの構造から漏出する作品を創作する。彼の作品の中では、時間と空間が圧縮・拡張され、隠喩と直喩が交錯し、五感の中でも、視覚を重視する傾向が見てとれる。先に引用した通り、ロリータの説明に際して用いられている時間と空間の入れ替えを作家は視覚的イメージを通じて表現している。

 この傾向は『賜物』(一九六三)のような後期の作品まで一貫している。

 

 複雑に錯綜した黒い小枝のふくらみ始めた芽の上には、点々と、雨だれが白い玉を作っている。(明日にはきっとそれにそれぞれ青い目玉が入るだろう)。

 

 最初の車両の明るい窓のそばでひとりの女があくびを始めたが、それが別の女─最後の車両の─によって完了された。

 

 ロマン主義的作品に対するパロディを描きながら、実際のナボコフにはロマン主義者的な態度が見られる。『ロリータ』はアメリカの出版社から断れたため、最初、ポルノグラフィの出版社として有名なパリのオリンピア・プレスから一九五五年八月に刊行され、グレアム・グリーンらの紹介により欧米を中心に注目を集めている。ところが、この英語版はフランス国内で発売禁止になる一方で、合衆国の税関当局はその輸入を許可している。アメリカでは、一九五八年八月にニューヨークのパトナム社から出版されベストセラーになったものの、四〇年に移住し、五年後にグリーン・カードを獲得したこの作家は、彼に名声と富をもたらしたアメリカ文化を批判している。結局、彼は、五九年、スイスに移住し、七七年七月二日にモントルーで死去するまで、隠遁生活を送り、アイロニー的な姿勢を貫き通している。

 一八九九年四月二三日、サンクトペテルブルクの裕福な貴族の家に生まれたこの作家は作品を一つの迷宮にしている。彼はノスタルジアと幻想性を持つ世界を審美的な文体で表現する。現実と幻想の境界が決定不能になり、レトリックと言葉遊びに溢れる。『ロリータ』にも、際限ないほどの言葉遊びが見られる。まず、はかなく亡くなった「アナベル(Annabelle)」はヘブライ語の「恵み深き」とフランス語の「美しい」を合わせ持つ名前である。ドローレスの姓「ヘイズ(Haze)」は仮名となっているけれども、それがここで使われている点で興味深い。この英単語には、ジミ・ヘンドリックスが一九六八年を表象する曲のタイトルに含めた通り、「薄煙」や「霞」、「もうろうとした精神状態」、「ぼんやりさせる」、「苦しめる」、「こき使う」、「(上級生が下級生を)しごく、ないしいじめる」という用法がある。他にも、ロリータがハンバートから離れて一緒に逃げた「クレア・キルティ(Clare Quilty)」の「クレア」は「明るい」を意味し、「キルティ」はラテン語のマットレスに由来する「キルト」である。また、彼女が結婚した「リチャード・シラー(Richard Schiller)」の「リチャード」は「支配」と「厳格な」の二つの意味を持ち、「シラー」はかのドイツの偉大な詩人の姓と同じである共に、ドイツ語で、「(多様に変化する)光彩」や「玉虫色」を指す。ロリータを連れてキルティは偽名を使って各地を泊まり歩いているが、ケンブリッジ大学を最優秀で卒業した作家は、そこでも、ドイツ語で「くすぐる(Kitzeln)」と「クリトリス(Kitzler)」をひっかけた「キッツラー博士(Dr. Kitzler)」や「うんざりして(Browned-off)」を暗示させる「ウィル・ブラウン(Will Brown)」など数多くの言葉遊びを見せている。全世界に衝撃を与えた英語の小説は、全体の構成より、細部へと関心が傾けられ、多種多様な引用や巧妙な言葉遊びに満ちている。『ロリータ』を読む自体がこの迷宮の中を彷徨うメルヘンの体感である。

 

 意志の不在にもかかわらず、幻想としての意志的なものが。管理的計画としての都市を出現させてしまう。それは原生的無秩序の補償でもあって、そのため秩序を氾濫させることになる。その秩序の過剰は、機械的な無秩序を産出せずにはいられない。

 したがって都市は、いつも空間の不足のゆえに、歪曲した形になる。その狭小さが内部の濃密さをもたらすのではなく、内実は空虚なままに屈曲した回廊がいりくんで、空疎なままに錯雑化していく。

 このことが都市の管理を裏切るための、唯一の着眼かもしれない。その回廊は、その実はきまった目標など持たないのであるから、いかにも従順に道路標識に従うかのようにしながら、ふと途中下車してみる。すると、思わぬ場所に到達しないでもない。

 迷宮に対処するには、出口を求めないに限る。迷宮それ自体が世界であって、外部などないのであれば、出口など意味を持たない。出現する任意の場所が、自己実現のための所以である。

 もともと、迷宮的管理というものは、出口を求める人間を必要としていた。管理を崩壊させるために、一切の運動を停止して、管理を渋滞させる方策もあるが、それには閉塞に耐えねばならない。それよりも、この都市に漏出するのがよい。迷宮から漏出したところで、それは相を変えた迷宮であるのだが、この場合には迷宮が利点となる。

 幻想としての管理の過剰に出発して、この迷宮が発生したのであるから、管理機構を粉砕しようというのも幻想に属する。むしろこの過剰を錯雑化かさせよう。

 その結果として、都市の網はいよいよ透視困難になり、ついには地図が無効になろう。もともとが空虚であったのだから、地図の昇華は都市の未来にふさわしい。

 その結果、どこへ行こうと試みることも不能でどこへ至るのも可能なような、だれに会おうと試みることも不能でだれとも出会うのが可能なような、確率的都市が成立する。元来、迷宮とは確率ゲームの機構であった。都市を生活するというよりは、都市をギャンブルすることが課題なのである。

 こうした彷徨の装置としての都市が、管理を侵食していった結果、ここにある未来とはなんなのだろうか。田園的自然などでないことだけは、はっきりしている。

 しかしながら、元来が都市に漏出するとは、未来などに関心を持たないことだ。その断念によってこそ、彷徨の装置となりうるのである。

(森毅『散らし書き「文体としての都市」』)

 

 ナボコフの迷宮のレトリックはこの「文体としての都市」を具現している。『ロリータ』では、「どこへ行こうと試みることも不能でどこへ至るのも可能な」ように、現在が過去を想起させるためにある。ハンバートのロリータへの想いは失われた少年時代の郷愁である。彼は、成人した後も、その喪失感は癒されない。ロリータはその時代の象徴である。彼女は、その意味で、存在するともしないとも言えない。

 『ロリータ』に限らず、一九一九年にロシア革命を避けて西欧に亡命したこの作家にとって、ノスタルジアは作品に欠かすべからざる要素である。『思い出よ、語れ』(一九六六)は、ナボコフ自身の帝政ロシアでの子供時代と一九四〇年までの暮らしを思い起こさせる。しかし、それは『失われた時を求めて』のマルセル・プルーストや『野菊の墓』の伊藤左千夫のように記憶としてではない。亡命ロシア人が感じる死に至る病、すなわち「ノスタルジア(Ностальгия)(アンドレイ・アルセニヴィチ・タルコフスキー)である。

 

Voices heard in fields of green

Their joy their calm and luxury

Are lost within the wanderings of my mind

 

I'm cutting branches from the trees

Shaped by years of memories

To exorcise their ghosts from inside of me

 

The sound of waves in a pool of water

I'm drowning in my nostalgia.

David SylvianNostalgia

 

 英語での執筆を決意したこの作家は、ノスタルジアを喚起するとき、そこにタブーを秘めた官能性を帯びるように記す。

 

 彼は母が滝のそばのから松の蔭になった洞穴で自分を待っていることを知っていた。 そういう取り決めがしてあったのだ。

 彼女はいつも早朝に散歩に出かけた。

 そしてマルチンを起こすことを好まなかったので、書き置きをして行くのだった。

 「十時に洞穴で」とか、…だがマルチンは母が待っているのを知りながら、急に方向を変えて、小道を外れ、ヒースをよこぎって坂を登って行った。

(『青春』)

 

 ノスタルジアは危険な両刃の剣である。それは生の感触を与えてくれると共に、破滅をもたらすからだ。ナボコフのノスタルジアは父のいた時代に向けられているが、現代社会にとってそれはタブーである。この想いはタブーを破ることにつながり、そこにエロティシズムが生ずる。『ロリータ』において、アナベルへの愛は父が生きていた時代のノスタルジアと不可分である。生きていたけれども、彼はあまり父に言及していない。ハンバートは、むしろ、アナベルと子供だけの世界にいたことに固執する。父の生きている世界と子の世界が絡み合い、後者が前者を抑圧している。しかも、ハンバートの母は彼が三歳のときにピクニックでの落雷事故のせいで亡くなり、母以降も、ハンバートが女性を愛すると、その人は命を落としてしまう。アナベルもその一人である。彼の愛は甘美であると同時に、つねに不吉さがつきまとう。彼は愛を通じて死の過剰さを味わっている。母が過剰になった社会を生きているロリータをノスタルジアによって彼が見出したとき、そこに忌まわしさが現われざるをえない。

 封建社会や伝統的社会において、ハンバートが指摘している通り、ガール・チャイルドと結婚することは、『源氏物語』を文学的傑作となっているように、違法でも犯罪でもない。日本の戦国時代の政略結婚を見ても、胸も膨らんでいない未成年が還暦に達しようとする男性に嫁ぐケースも珍しくないし、また、ルクレツィア・ボルジアの如く、二次性徴を経験していない少女が結婚し、初潮を迎えた後、初めて、初夜を夫と共にすることも少なくない。むしろ、ロリータの結婚が禁止された時期のほうが、歴史的には、特殊である。ロリータへの求婚は、近代の到来と共に、違法と規定される。それは父が不在になったからである。その一方で、ハンバートは「ヤング・パーソン(Young Person)」と呼ばれる一四歳から一七歳までの思春期の少女にはあまり興味がない。思春期は身体的のみならず、精神的にも、一般社会に適応する時期であるが、それは近代によって生まれている。ハンバートのノスタルジアは近代が抑圧したものに対して向けられるのであって、その反応は当然であろう。

 『ロリータ』という作品はたんなる倒錯性愛を描いているのではなく、前近代=近代=脱近代の歴史的・社会的背景と密接にかかわっている。産業資本主義=国民国家は父を殺して成立している。身分制に基づく封建社会から個々人が相互に公平な立場で自由に商品を交換し、労働力という商品を持った労働者が自由に移動できる資本主義社会へ移行する。近代は父が死に、子が突出した時代である。「父殺し(Der Vatermörder)」は過去の出来事にすぎない。

 

Ein Vater starb von des Sohnes Hand.

Kein Wolf, kein Tiger, nein,

Der Mensch allein, der Tiere Fürst,

Erfand den Vatermord allein.

 

Der Täter floh, um dem Gericht

Sein Opfer zu entziehn,

In einen Wald, doch konnt er nicht

Den innern Richter fliehn.

 

Verzehrt und hager, stumm und bleich,

Mit Lumpen angetan,

Dem Dämon der Verzweiflung gleich,

Traf ihn ein Häscher an.

 

Voll Grimm zerstörte der Barbar

Ein Nest mit einem Stein

Und mordete die kleine Schar

Der armen Vögelein.

 

Halt ein! rief ihm der Scherge zu,

Verruchter Bösewicht,

Mit welchem Rechte marterst du

Die frommen Tierchen so?

 

Was fromm, sprach jener, den die Wut

Kaum hörbar stammeln ließ,

Ich tat es, weil die Höllenbrut

Mich Vatermörder hieß.

 

Der Mann beschaut ihn, seine Tat

Verrät sein irrer Blick.

Er faßt den Mörder, und das Rad

Bestraft das Bubenstück.

 

Du, heiliges Gewissen, bist

Der Tugend letzter Freund;

Ein schreckliches Triumphlied ist

Dein Donner ihrem Feind.

(Gottlieb Konrad Pfeffel und Franz Peter Schubert “Der Vatermörder”)

 

 幼いハンバートは、父を精神的に追放することで、アナベルと子の世界を生きたわけだが、ロリータとは彼女の母の事故死によってまんまとそれを手に入れる。ハンバートは夢の世界を現実化できる機会に直面したとき、躊躇せず、実行に移す。ドローレスの母の名シャーロットは、ドイツ語圏では、シャルロッテになり、それは『若きウェルテルの悩み』のヒロインの名前である。

 

 シャルロッテは、優雅にして清潔で、優しく、その優しさが彼女のあらゆるしぐさやまわりの人々が彼女に接する態度から伝わってくる女性でした。ウェルテルは、一目見るなり、そんなシャルロッテに心を奪われてしまうのです。彼女はまわりの人々から深い愛情をもってロッテ(Lotte)と呼ばれています。やがてウェルテルはシャルロッテへの愛の思いを極限にまで突き詰め、彼女を自分の生きる力のすべてと考えるようになりました。そして、その愛が成就しないことを確認したとき、死を決意するのです。

 この『若きウェルテルの悩み』は当時の若者に熱烈に支持され、青春文学の最高傑作とも言われる一方で、この小説の影響によって失恋がゆえに自殺する人が増え、「精神的インフルエンザの病原体」といって非難されたほどでした。しかし、ゲーテが造りだしたシャルロッテ像は次第に勃興しつつあった市民階級に受け入れられ、統一されていくドイツ国民の理想の女性のイメージがかぶせられるようになるのです。

(梅田修『世界人名ものがたり』)

 

 『ロリータ』においては、ゲーテのベストセラー小説と違い、恋する男ではなく、シャーロットが死ぬ。統一された国民国家の理想は、現代社会では、崩壊していく以上、それは示唆的である。近代は子の時代であるが、進むに連れて、父に対する郷愁が生じ、それを補うために、母が肥大化していく。父は必要だとしても、前近代的な父はアナクロニズムにすぎず、過剰なる母に寄り添う程度の継父でよい。現代社会は母の時代である。シャーロットは過剰になった母である。ハンバートは継父として役割を希求されたのであって、『ロリータ』の世界には父はいるともいないとも言えない。彼は精神的にいつも父を追放している。継父であることは口実にすぎない。「パパ。」と手紙を書き送るドリーはハンバートに父を求めているが、彼はそれに応えず、子として生き続けようとする。

 

Momma never seemed to miss the finer things in life

If she did, she never did say so to daddy

She never wanted to be more than mother and a wife

If she did, she never did say so to daddy

The only things that seemed to be important in her life

Was to make our house a home and make us happy

Momma never wanted anymore than what she had

If she did, she never did say so to daddy

 

He often left her all alone

She didn't mind the stayin' home

If she did, she never did say so to daddy

And she never missed the flowers

And the gifts he never gave her

If she did, she never did say so to daddy

 

Being took for granted was a thing that she accepted

And she didn't need those things to make her happy

She didn't even seem to notice

That he didn't kiss and hold her

If she did, she never did say so to daddy

 

One morning we awoke

Just to find the note

That momma carefully wrote

And left to daddy

And as he began to read it

Our ears could not believe it

The words that she had written there to daddy

 

She said our kids are old enough

And they don't need me very much

So I've gone in search for love I need so badly

I have needed you so long

But I just can't keep holdin' on

She never meant to come back home

If she did, she never did say so to daddy

 

Momma's gone

Good-bye to daddy

(Dolly Parton "To Daddy”)

 

 近代において、父は不在である。子は殺すべき父を持たない。子は、そこで、自ら社会規範を作り始める。それは「公平」である。子の公平の規範が推し進められ、子は父を持たぬまま生まれる。そのため、現代では母が過剰になっていく。子は母を殺すことができず、彼女に包みこまれる。こうして子は、継父によって、母からのクローンとして生まれる。しかし、そのとき、父が完全に不在なのではないことが顕在化する。

 

 青年にとって、父とはなんであったか。通常は、彼に対する社会の規範を象徴すると考えられている。青年は社会に反抗する。それで、成人するためには、儀式的な父殺しがある。象徴のレベルで、父を殺すことによって、青年は成人してきた。こうして彼は、社会に加入する。

 しかし現在、父は社会規範を象徴したりはしない。そもそも、規範はすべて管理規則になってしまったではないか。社会規範が衰弱したからこそ、管理規則が必要になったのだ。

 

 父は自信を失った、という。当然のことだ。かつて自信といわれたものは、彼自身に発するものではなく、社会の持つ規範性に支えられていたのだ。管理機構に支えられて、人間はむしろ臆病になる。「自信」ありげにみえるのは、その臆病さの擬態だ。

 だから当節、自信を持った父の像は、むしろ滑稽である。規範を持たず屈折した人間の姿が、現代の父としてある。

 しかし、殺すべき父を持たない子供たちは、どうなるのか。象徴レベルで殺すべき父なしに、彼はどのように成人すればよいか。

 

 むしろ、父によってでなく、子によって、新しい社会規範が生じかけているのかもしれない。ぼくは、それがとてもいやなのだが。

 たとえば先日、ある中学校の教室へ行ったとき、今週の目標「掃除をさぼらない」とあって、掃除をさぼると他人の負担を増やし、他人の人権を侵害する、なんて解説がある。「労働のよろこび」どころの話じゃない。「人権の公平」の規範性が奇妙な段階にまで達してしまっている。

 だいたいは、学校がうまく動くためには、サボりの人間がいなくてはならない。自分もいつの日かサボリの役をになう可能性が、集団にユトリをもたらす。

 「公平」が父の規範であったことはないから、これはまた、別種の現象なのだろう。

 ともかく現在、管理はあっても規範はない。それゆえに、殺すに値する父はいない。

 

 父が対立であるとするなら、母は包容であったろう。しかし、包容されるということは、所有されるという意味を含んでいる。象徴レベルで、対立するものとしての、父の支配を倒すことはできる。しかし、原理的にいって、みずからを包みこむものとしての、母を殺すことはできない。包みこまれることによって、殺されるのは自分のほうである。

 これはいちおう、「母性愛」で飾られるが、そうした感情とは別の概念である。人間にとって、愛はしばしば憎をともなうので、わが子を憎むという所有の型だってありうる。白雪姫の原型では、「鏡よ、鏡よ」と問いかける例の魔女は、継母ではなくて実母なのである。

 象徴レベルで、対立するものとしての、父の支配を倒すことはできる。しかし、原理的にいって、自らを包みこむものとしての、母を殺すことはできない。包みこまれることによって、殺されるのは自分自身である。

 してみると、母に抱かれることについては、父殺しの場合と逆の意味が読みとれる。父との別れは子の自立だろうが、母との別れに、自立といった主体的な契機を読みとる必要はない。それはむしろ、母による所有から避難するための自衛である。

 そしてたしかに、家庭の肥大が、母からの離脱を困難にしている。現代の白雪姫たちは、母から贈られたリンゴにとりまかれている。彼女にとって必要なトリックスター、七人の小人たちは住み家を失った。

 

 結局は、子の領分ができる以外に、救いはないのではなかろうか。昔と違って、学校には子の領分をあまり期待しないほうがよい。よほど幸運な場合を除いては、子どもは学校に自分の領分を持たず、制度の管理に隷属させられているだけだ。

 子の領分とは、子ども部屋のような、母の作った巣を意味しない。それは、彼がいたずらな小人たちと会うことのできる場所のことだ。母に包まれることなく、自分ひとりの孤独を守れる場所のことだ。

 いったいに、子どもの成長にとって、孤独になれることは重要なはずだ。どこにも位置づけられない、なにものにも包みこまれない、自分ひとりになれることは、成長の過程になくてはなるまい。

 

 むしろ、「父のきびしさ」と「母のやさしさ」なんて、なんの根拠もあるまい。父なるものは不在であっても、自分の領分のなかでみずから成長することができればよいし、母なるものの幻想がおおっていようと、待避する領分がありさえあれば安全だ。

 それは、自分固有の領分で、自分に固有の小人たちと面会できる場所である。父にとって悪い子になることができ、母の世界からはみだすことのできる場所だ。これは、実在の世界である必要すらない。彼の心の中に、そうした世界があるだけでよい。

 さきの「公平」への価値意識の異常増大は、彼らが心の中に、自分の固有の領域を持たないことを証明している、とぼくは考えている。子どもに一番だいじなものは、自分の心の中の夢であって、そして、彼の夢に現れる小人は、彼だけにしか現れないものだ。夢は、つねに不公平なものだ。

 よく、「このごろの子どもは、自分のことしか考えない」と言われる。このことは、彼らが「自分のこと」をほんとうに考える機会を奪われている状況では、とても逆説的に聞こえる。いま、子どもたちが考えなければならないのは、「他人のこと」などでなく、なによりも「自分のこと」ではないのか。他人とくらべての「不公平」などより、自分で勝手な夢の世界を持つことではないのか。

(森毅『父と母と、そして子と』)

 

 エレクトラとオレステスのように、母殺しの神話も、確かに、語り継がれている。しかし、彼らは策略によって父を亡き者にした母を父の復讐として殺すのであって、父の権威に基づいている。それは間接的な父殺しである。

 一方、『ロリータ』は父の死が決定不能に陥り、母が過剰になった世界の物語である。現代社会において、エディプス・コンプレックスはありえない。殺すべき父の存在が決定不能に陥っており、ハンバートは子としてあり続けるために、過剰なる母を殺す。しかし、それは自分を殺すことにつながってしまう。しかも、ハンバートは「それでもドリー・シラーよ、たぶん私よりもずっと長く生きるだろう。だから私は、この種記をロリータがこの世を去るまで発表しないことに決めよう。こんどそれは正式に署名した遺言状のあらゆる法的強制力と根拠をもつことになるだろう」と思っていたが、「はしがき」によると、ロリータは母にはなれない。

 

 「リチャード・F・シラー」夫人は、一九五二年のクリスマスの日に、北西部の僻村グレイ・スターで、乳児を分娩した直後に亡くなった。

 

 それを知ることもないハンバートは、この「ある白人の男やもめの告白」をこう閉じる。「私はいま野牛や天使たち、永続的な絵具の秘密、予言的なソネット、つまり芸術という避難所について考える。ロリータよ、私がおまえと永遠の生を共にすることができるとすれば、ただひとつ、これしかないのだ」。

 

If I should stay

Well I would only be in your way

And so I'll go, and yet I know

That I'll think of you each step of my way

 

And I will always love you

I will always love you

 

Bittersweet memories

That's all I have and all I'm taking with me

Good-bye, oh please don't cry

Cause we both know that I'm not what you need

 

But I will always love you

I will always love you

 

And I hope life will treat you kind

And I hope that you have all

That you ever dreamed of

Oh I do wish you joy and I wish you happiness

But above all of this, I wish you love

I love you, I will always love you

 

I, I will always, always love you

I will always love you

I will always love you

I will always love you

(Dolly Parton "I Will Always Love You”)

 

 『ロリータ』の世界から、シャーロットも、キルティも、ハンバートも、ロリータも去っていく。ディックに残されたロリータの子は幼少時代のハンバートの姿を想い思い起こさせる。『ロリータ』は円環構造を持ったロマンスであるが、ハンバートにとって、ロリータがアナベルの化身、取り替え子であるとすれば、その子はハンバートの生まれ変わりである。円環構造が登場人物を通じても絡み合って成立している。しかし、この連鎖は未完である。

 

 病歴記録として見た場合、『ロリータ』は、もちろん精神病学会では一つの古典となるべきものであろう。芸術作品としては、贖罪という意味を超越しているが、しかも、それら科学的重要性や文学としての価値にもまして重要なことは、この本が、まじめな読者に倫理的な衝撃をあたえるにちがいないことだ。なぜなら、この深刻な個人的考察には、ある普遍的な教訓がひそんでいるからだ。気まぐれな少女、自分勝手な母親、欲望にもだええる狂人──これらは、一つの珍奇な物語に生々しく描かれた登場人物であるばかりでなく、われわれのもつ危険な傾向を警告し、われわれのなかにひそむ悪の力を指摘しているのだ。さらに、『ロリータ』は、世の親や社会事業家や教育者たちすべてに、より安全な社会のなかで、よりよき世代をはぐくむ仕事に、より一層の警戒と洞察をもって専念するように仕向けるはずである。

 (『ロリータ』)

 

 昔あるところに「気まぐれな少女、自分勝手な母親、欲望にもだええる狂人」がいた物語は母の過剰な現代社会における「われわれのなかにひそむ悪の力を指摘している」。子は殺すべき父も母も持たずに、アンチユートピアの世界を生きなければならない。しかも、残念ながら、自分自身が取り替え子であるかもしれないのだ。それは現代のドリー、ロリータが体現する「悲しみ」である。従って、「子どもたちが考えなければならないのは、『他人のこと』などでなく、なによりも『自分のこと』ではないのか。他人とくらべての『不公平』などより、自分で勝手な夢の世界を持つことではないのか」。

 

 Other men die; but I Am not another; therefore I'll not die.

(Vladimir Nabokov)

〈了〉

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